Masuk寒仙雪門の冷風に乗って舞い踊る水仙の甘い香りが部屋中を漂い、|墨余穏《モーユーウェン》の鼻の奥をつんと冷やす。
ゆっくりと目を開け、豪華な白い紗が幾重にも重なった洒落た天井を見遣る。 (ここは……) 「目が覚めたか」 透き通った聞き覚えのある美声が、脳天に降りてくる。 |墨余穏《モーユーウェン》はムクっと上体を起こし、カチャカチャと音のする方に目を向けると、仏頂面な顔で|師玉寧《シーギョクニン》が茶を淹れていた。 「ここは?」 「私の私室だ」 (ここが、建て直したと言っていた玉庵か……) そう聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、夢でも見ているのではないかと錯覚し、自分の頬をつねる。あれだけ会うのを躊躇していた|墨余穏《モーユーウェン》だったが、いざ水仙の花を目の前にすると非常に眺めが美しく、心が躍った。 「|墨逸《モーイー》。茶だ。飲むといい」 |師玉寧《シーギョクニン》は卓の椅子に腰掛け、自らも淹れたての茶を啜る。|墨余穏《モーユーウェン》は寝台から降り、|師玉寧《シーギョクニン》と向かい合うようにして椅子に座った。 揺蕩う湯気が心地良く、|墨余穏《モーユーウェン》は「いただきます」と言って茶をそっと口に含んだ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》はすっかり忘れていた。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》で出される茶は、苦くて有名な一葉茶であることを。 目の前にいる|水仙玉君《すいせんぎょくくん》は、水を啜っているかの如く、何一つ表情を変えない。 茶器を握りしめたまま続きの一口が飲めないでいると、見兼ねた|師玉寧《シーギョクニン》が、くぐもった声で一言放った。 「最後まで飲め」 |墨余穏《モーユーウェン》は片方だけ口角を吊り上げながら、苦笑いを浮かべる。飲めないなどとは言わせない圧が、短い言葉から滲み出ていた。 |墨余穏《モーユーウェン》は一息置いて、一気に飲み干す。 (うぅ……、まっず……) すぐに俯き、しばらく顔を上げられないままでいると|師玉寧《シーギョクニン》が卓の上に一枚の呪符を置いた。 「|墨逸《モーイー》。これはお前のか?」 |墨余穏《モーユーウェン》はゆっくり顔を上げて、「うん」と答える。続けて「なんで持ってんの?」と尋ねた。 |師玉寧《シーギョクニン》は、黄玉の目を細めながら答える。 「黄山で拾った。呪符はちゃんと回収しろ。誰かに悪用される」 「ないない。俺の呪符は強力だし、誰にも真似できないよ」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》を一瞥しながら、小さく溜息をつく。 天台山に所属する門派、天流会の者たちは、古くから呪符は必ず回収するよう掟に定められている。上級の強力な呪符を異国者や修仙者以外の者に触れさせない為だ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は、その事について忘れてしまっているのか、意気揚々と続ける。 「それに、俺凄くない? あんなでっかい幻獣を一人で倒したんだよ! ねぇ、少しは褒めてよー。|賢寧《シェンニン》兄ぐらいじゃないと倒せないでしょ?」 「あんな幼獣を倒したところで強くなったと思うな」 相変わらず氷瀑の如く鋭い刃を持った|師玉寧《シーギョクニン》の言葉に、|墨余穏《モーユーウェン》はムスッと下唇を突き出した。 そんな様子など見向きもしない|師玉寧《シーギョクニン》は、白い包子が二つ乗った皿を卓の上に置く。 「ん?これは?」 |墨余穏《モーユーウェン》は、視線を合わせてくれない|師玉寧《シーギョクニン》の目を追うように尋ねた。 |師玉寧《シーギョクニン》は自分の分の包子を手に取って半分に割り、「苦参が入った包子だ」と言って、一口齧り付く。 苦参と聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、絶句しながら思わず目を見開いた。 (何でそんな苦い薬草をぶち込むんだ?! 普通は肉だろ……) |墨余穏《モーユーウェン》は落胆するように眉を垂れ下げて、仕方なく頬張った。 天は二物を与えずとは正にこういうことを言うのだろう。 十全十美の|師玉寧《シーギョクニン》に、天は味覚音痴と料理下手という才を与えた。そんな|師玉寧《シーギョクニン》はというと、あっという間に包子を食べ終え、静かに書物を広げて何かを書き記す。 「ねぇ、何書いてんの?」 「妖魔が出た日付と場所だ」 |墨余穏《モーユーウェン》は包子を咥えながら、|師玉寧《シーギョクニン》の背後に周り、上から覗き込むように書物を眺めた。 「昔からまめだね、|賢寧《シェンニン》兄は」 そう言いながら、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の横顔に自分の顔を近づけるが、何を思ったのか|師玉寧《シーギョクニン》は避けるかのように書物を閉じ、本棚へ戻しに席を立った。 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の背中を一瞥し、「ふんっ」と鼻を鳴らす。 「ところで、|賢寧《シェンニン》兄。|青鳴天《チンミンティェン》と一緒にいた|阿可《アーグァ》って奴は何者なの? そいつ、抜け殻だけ残して消えたんだよ! 投げた|峨嵋刺《かびし》で胸を射抜いたのにさ」 「うん。 奴らは三神寳を盗めるぐらいだ。超人であることは間違いない。この突厥たちは、様々な国に行っては財宝を盗み、それを駆け引きに力を得ている。我々が大切に守ってきた三神寳も、奴らは新羅(韓国)の物だと言い張っているようだ」 「新羅? どうして急に?」 |墨余穏《モーユーウェン》は全く理解できないといった様子で頬杖をつく。|師玉寧《シーギョクニン》は本棚に背を向けて、その場から続けた。 「皇帝が代理に変わった事が原因だろう」 「|李高祖《リーガオソ》じゃないのか?」 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく首を振りながら、元居た場所へ戻り、また苦い一葉茶を自分の茶杯に注ぎ始める。 「|李世《リーヨ》という腹違いの末っ子だ」 「李世ってあの幼い頃から美男子だった奴か?」 美男子と聞いて、|師玉寧《シーギョクニン》の顔が一瞬曇った。そんな師玉寧の表情を全く見ていなかった|墨余穏《モーユーウェン》は、「でも、どんな顔してたっけ?」と人差し指を頬に当てながら、記憶を巡らせている。 李皇帝には、皇子が三人いるのだが、これが残念なことに三人とも腹違いの兄弟な為、不倶戴天の仲なのだ。政になると頭を抱える李皇帝は、普段から天台山の長座・道玄天尊に教授を仰いでいた。そこで、一番穏やかで素直な末の皇子を推薦し、代理に仕立てたようだ。 「何で代理なんか立てたんだ?」 「李皇帝が何者かに毒を煽られたそうだ。それからずっと、静養なさっている」 いつの世も皇帝の争い事は絶えずよくある話だ、と|墨余穏《モーユーウェン》は人ごとのように「ふぅ〜ん」と言った。 十年もすれば、世勢は当然のように変わる。 目の前にいる水仙も門主になり、妾や子がいてもおかしくはない年頃だ。 自分だけが十年前のまま置いていかれているような気になっていたが、目の前にいるこの水仙は何も変わっていないようで、|墨余穏《モーユーウェン》はそれが唯一の救いだった。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》が外の庭を眺めながら、独り言のように呟く。 「ここ最近。いろんな事が立て続けに起きている。突厥の襲来、三神寳の盗難、皇帝内の紛争、そして墨逸。お前がここにいることだ」 「俺も何か関わっているってこと?」 「分からんが、今はあまり派手に動くな」 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言うと、重い腰を上げるように立ち上がり、壁に掛けてあった長袖を羽織りながら続ける。 「私は今から|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の所へ行く。|墨逸《モーイー》、お前はもう少し横になって休んでいろ。お前は恐らくこのあと熱を出す。何かあればこの神通符で|一恩《イーエン》を呼べ。すぐに駆けつけるようにさせる」 そう言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は凍りそうな冷たい空気だけを残して部屋を出ていった。 (|香翠天尊《シィアンツイてんずん》……) |墨余穏《モーユーウェン》はその人物の名を聞いて、胸がチクリと痛んだ。 そう。|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は天台山にいる|道玄天尊《ドウゲンてんずん》の妹であり、|師玉寧《シーギョクニン》が前世から想いを寄せている女性だ。 前世でも|師玉寧《シーギョクニン》は頻繁に|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の元を訪れていた。気になって後をつけて見に行ったことがあったが、自分には見せない笑みを湛え、仲睦まじく笑い合っていた姿が今も忘れられない。 今もまだ想いを寄せているのか、と|墨余穏《モーユーウェン》は落胆し、晴れやかだった心の蕾が萎んだ。 「はっくしゅん!」 |墨余穏《モーユーウェン》は言われた側から、くしゃみを飛ばす。部屋も冷たさが増し、身体も心も完全に冷え始めた。 (あぁ〜、何なんだよ……ったく) |墨余穏《モーユーウェン》は衣の上から腕を摩りながら|師玉寧《シーギョクニン》の寝台へもう一度上がり、布団に包まる。|師玉寧《シーギョクニン》の残り香だけを頼りに|墨余穏《モーユーウェン》は、熱っていく身体を解放するかのように、ゆっくりと目を閉じた。物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑
|墨余穏《モーユーウェン》は胸の痛みを隠しながら、「そっか」と無理矢理笑みを作った。気まずくなるのが怖くて、墨余穏は更に言葉を続ける。「一緒に過ごせるといいね、その人と。もし、その人と|賢寧《シェンニン》兄が結婚したら、俺はちゃんと玉庵から出て行くから安心して。あ、もう出てった方がいいかな? |金王《ジンワン》先生に診てもらったら、そのまま俺は違う所へ行くよ。俺は|賢寧《シェンニン》兄が居なくても、どこでも生きていける」 鼻の奥がツンとした。 本心じゃないことを口走り、目縁がほんの少し濡れ始める。 墨余穏は師玉寧に見られないように、後ろを振り返って黒い袖で目縁を拭った。 すると、師玉寧はずっと瞳を揺らしながらこちらを見ている。「ん? どうした? |賢寧《シェンニン》兄」「……お前にも、好いている者がいるのか?」 言おうかどうか迷ったが、|墨余穏《モーユーウェン》はそれとなく答えた。「俺? あははははっ。そうだね、いるよ。死ぬ前からずっと思いを寄せてる人が。でも、その人は高嶺の花みたいでさ。ずっと触れられそうで触れられないんだよね。その人にも大切な人がいるみたいだし……」「そうなのか……」 これまで感じていた空気が、夕陽ごと一気に沈む。 女夜叉のせいで足止めを食らってしまった為、夜分に押し掛けるのは良くないと判断した二人は、山を登らず近くにあった簡易的な宿に身を寄せた。それぞれの部屋から大きな溜め息と鼻を啜る音が聞こえていたのは、誰も知らない。 重苦しい夜長がようやく明け、澄んだ朝がやってきた。 何事もなかったかのように二人はいつも通りの雰囲気で山を登り、無事|金王《ジンワン》医官の所へ到着した。 山奥に聳え立つ一軒の屋敷の外は、ありとあらゆる薬草で溢れかえっており、独特な匂いが漂っていた。簡易的な木の門の前で二人の姿を捉えた銀髪の長老・金王は、持っていた桶を真ん中で持って小さくお辞儀をする。|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》も丁寧に拱手し、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の紹介でここを訪ねたと話した。「はい。伺っておりますよ。天台山の若き道士が来られると。あなたが、あの|豪剛《ハオガン》の……。どうぞお二人ともお入りください」『お邪魔します』 同時に発した言葉が重なり、二人は互いを見遣る。 墨余穏は
|黄林《フゥァンリン》の後についていくと、|金龍台門《きんりゅうだいもん》の正門付近で、松明を持った人集りが見えてきた。 「何が起きたんだ?!」 眉間に皺を寄せながら|墨余穏《モーユーウェン》が黄林に尋ねると、黄林が口を開く前に|金冠明《ジングァンミン》が先に口火を切った。 「ここ最近、|金華《きんか》の猫という人間に化けた妖獣がこの周辺に出没し始め、男なら男根と金品を奪い、女なら下腹部の人肉……特に子を孕んでいる女子は母胎ごと取られるという悲惨な事件が頻発している」 「はぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》は顔半分を歪ませながら、その悲惨な現場を目撃する。丸裸の男が横たわり、下半身から悍ましい量の鮮血を漏らしている。まるで、血溜まりの上で身体が浮いているかのようだ。墨余穏は思わず、大事な部分を隠すかのように、身体をくの字にして縮こまった。「|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていた、根こそぎ取られるというのは、こういう意味なのか……」 顔を歪ませながら|墨余穏《モーユーウェン》がそう言うと、背後にいた|師玉寧《シーギョクニン》が死体を見ながら呟いた。「しかし、凄い血の量だ。余程、男に強い怨みがあるのだろうか?」「いや、まだ男ならこの程度で済みますが、孕んだ女子の死体はもっと悲惨ですよ……。顔も抉られ、原型を留めません。あれは言葉を失うぐらい、目も当てられませんよ……」 |金冠明《ジングァンミン》は俯きながら、そういう死体を幾つか見てきたと言う。俯く金冠明を見たあと、|墨余穏《モーユーウェン》は目線を死体に向けた。この死体と金華の猫との間に何があったのかは分からないが、少なからず金華の猫は人間の心を得てして、男女問わず人間に強い怨みを抱いていることは間違いない。金と男女の縺れは人の人生を狂わすと、|豪剛《ハオガン》が生前言っていたのを思い出し、墨余穏は小さく息を吐いた。 墨余穏はそっと、一途に想う恋の相手に視線を向ける。 その相手もまた、何かを思うように死体を見つめていた。「|水仙玉君《スイセンギョククン》。何か気になることでもあるのですか?」 |金冠明《ジングァンミン》が|師玉寧《シーギョクニン》に訊ねると、師玉寧は死体を見つめたまま小さな声で呟いた。「いや、昔を思い出しただけだ……」 聞いていた|墨余穏《
(何で先に行っちまったんだろ、|賢寧《シェンニン》兄は……。俺、何かしたのか? ) |墨余穏《モーユーウェン》は段々と親鳥に置いていかれた雛鳥のように寂しさを募らせ、怒りよりも疑問が膨れ上がってきた。|師玉寧《シーギョクニン》の行動が全く理解できず、|墨余穏《モーユーウェン》は自分に何か非があったのか、何か怒らせるようなことをしたのか、考えを巡らせる。 (行きに俺が冷たくあしらったからか? もしかして昨日の夜、飲めなかった一葉茶を庭先にこっそり捨てたのを知っているとか? いや、そんな単純じゃないか。ん〜……、あ、そうか! |香翠天尊《シィアンツイてんずん》が俺に触れたから、それで機嫌が悪くなったのか! うん、それしか考えられない。ったく、図体はデカいくせに、そういうところは小さいんだよなぁ〜) 勝手な理由を見つけると、|墨余穏《モーユーウェン》は妙に自分で納得してしまい、それ以上追求するのをやめた。 |師玉寧《シーギョクニン》のことを考えていたら、あっという間に金龍台門へ繋がる賑やかな下町に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》は久しぶりに絢爛華麗な雰囲気を肌で感じた。 金龍台門のお膝元となるこの下町は、昔から商いの町として知られ、出店で賑わっている。華やかさゆえに妓楼も多く存在し、客を捕まえやすいのか、昼夜関係なく酒楼の前で首元をはだけさせた若い女たちが立っている。|墨余穏《モーユーウェン》の目の前にも、待ち構えていたかのように一人の仙姿玉質な妓女がふらふらとやって来た。 「そこのお兄さん、お一人? もし良かったら私と一緒に遊ばない?」 「あははっ、美人さんからのお誘いを断るのは忍びないけどごめん。今から金龍台門へ行かなきゃならないんだ。それに、先に行っちまった美人を今度こそ怒らすとまずいから、もう行かないと」 「そっかぁ〜、お兄さん彼女いるんだぁ〜、残念! でも、ちょっとだけ。だめ?」 妓女は墨余穏の腕を掴み、大きな果実のような胸を擦り付けながら、上目遣いで引き止める。 「ごめんよ、お姉さん。他を当たってくれないか」 |墨余穏《モーユーウェン》は苦笑いをしながらそっと腕を引き抜き、駆け足でその場を後にした。 (危ない危ない。こんな所で道草食ってる場合じゃないんだ。早く|金冠明《ジングァンミン》のところへ行かないと、待た
|師玉寧《シーギョクニン》にこっ酷く叱られた後、霊力を封じられた|墨余穏《モーユーウェン》は、魂魄の状態を|道玄天尊《ダォシュエンてんずん》に見てもらう為、|師玉寧《シーギョクニン》と天台山へ向かうことにした。 「ねぇ、|賢寧《シェンニン》兄〜。|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》のお力で、どうにかなるかな〜」 「それは分からない。だが、行ってみる価値はある」 これまでも数々の難題を解決してこられた天尊だ。 何か手立てを指し示してくださるかもしれない。 |墨余穏《モーユーウェン》はそんな淡い期待を胸に抱き、|師玉寧《シーギョクニン》と途切れ途切れな会話をしながら、山頂を目指した。 しばらく歩くと、天台山の門へ繋がる分かれ道に差し掛かる。 「お! 懐かしいね〜ここ。覚えてる? この分かれ道で俺ら出会ったんだよ。また石ころ遊びでもする?」 「しない」 |師玉寧《シーギョクニン》は相変わらず不機嫌のようだ。 (そりゃそうだよな。俺と一緒にいるってだけで、こうして毎度、面倒事に巻き込まれる……) |墨余穏《モーユーウェン》は|大篆門《だいていもん》に行ったことを腹の底から後悔した。もしあの時|豪剛《ハオガン》が近くに居たら、絶対に行くなと止められていたはずだ。 |師玉寧《シーギョクニン》を横目で見る。 他にも門主としてやる事があるはずなのに、|墨余穏《モーユーウェン》は申し訳ないという気持ちに駆られ、「ごめん」と謝った。 「別にお前の為に天台山へ行く訳じゃない。別件で用があるからだ」 「用って? |道玄天尊《ダオシュエンてんずん》に?」 「違う。|香翠天尊《シィアンツィてんずん》だ」 「……ふぅ〜ん」 香翠天尊と聞いて「またか……」と胸の内で嘆き、|墨余穏《モーユーウェン》は大人げなく不貞腐れた。 そして、じわじわと目には見えない大きな虚無感が墨余穏を襲い始める。 横にいる|師玉寧《シーギョクニン》を見ていると、自分のことなど何一つ眼中にないのだと分かる。自分が死んだ後も、天流会で出会った知り合いが死んだ程度にしか思っておらず、それ以上はきっと何も思わなかったに違いない。今、横にいるような澄ました顔で「そうか」と受け流し、変わらない日常を送っていたのだろう。 |墨余穏《モーユーウェン》は、更に勝手な妄想をし
|師玉寧《シーギョクニン》の背中に乗るという夢のような体験は瞬く間に幻と化し、|墨余穏《モーユーウェン》は無事寒仙雪門に辿り着いた。玉庵へ続く石段を二人で登っていると、一人の弟子が扉の前でじっと立っているではないか。墨余穏は目を細めて師玉寧に尋ねる。 「お! あれは|一優《イーユイ》か? それとも|一恩《イーエン》? あ、もう一人いたな? 確か|一明《イーミン》だっけ?」「あれは一優だ。一明は、父上の所へ行ってもらっている」 |師玉寧《シーギョクニン》の下には、見分けのつかない三つ子の弟子がいる。どこで個々を判断しているのか尋ねると、師玉寧は眉の位置と声の違いで判断しているという。|墨余穏《モーユーウェン》はさっぱり分からないといった様子で視線の先にいる一優を見る。 |一優《イーユイ》はこちらに気づくと、やっと帰ってきたと言わんばかりに目を輝かせ、二人の前で拱手する。「|師《シー》門主、|墨逸《モーイー》兄さん、お帰りなさい。至急こちらを門主に渡すようにと言われ、ここで待たせていただいておりました」 |師玉寧《シーギョクニン》は、「分かった」と言って、届いた一通の書簡を|一優《イーユイ》から受け取った。包みを丁寧に開け、中の紙をゆっくりと取り出し、達筆で書かれてあった文字を読む。 すると|師玉寧《シーギョクニン》の表情がたちまち曇り始め、眉間に皺を寄せた。「どうしたの? |賢寧《シェンニン》兄? そんな怖い顔して」 師玉寧は無言で、墨余穏に紙を手渡す。「何? 読んでいいの?」 墨余穏はそう言って、紙を受け取り読み始める。「ん〜っと、どれどれ。師門主殿。甦った|墨余穏《モーユーウェン》がそちらにいると聞いた。至急、墨余穏と話がしたい。三日以内にこちらへ来るよう、本人に伝えてもらえないだろうか。決して悪いことはしない。時間がないのだ。よろしく頼む。|高書翰《ガオシューハン》」 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の顔を見ながら確かめるように「だって」と笑う。 「どうする? 行くのか?」「まぁ、そうだね。ここは|賢寧《シェンニン》兄の顔を立てて、行ってくるよ」「大丈夫なのか? 高門主と仲違いしているのではないのか?」 |師玉寧《シーギョクニン》は眉間に皺を寄せたまま、心配そうに尋ねる。|墨余穏《モーユーウェン》は