Se connecter寒仙雪門の冷風に乗って舞い踊る水仙の甘い香りが部屋中を漂い、|墨余穏《モーユーウェン》の鼻の奥をつんと冷やす。
ゆっくりと目を開け、豪華な白い紗が幾重にも重なった洒落た天井を見遣る。 (ここは……) 「目が覚めたか」 透き通った聞き覚えのある美声が、脳天に降りてくる。 |墨余穏《モーユーウェン》はムクっと上体を起こし、カチャカチャと音のする方に目を向けると、仏頂面な顔で|師玉寧《シーギョクニン》が茶を淹れていた。 「ここは?」 「私の私室だ」 (ここが、建て直したと言っていた玉庵か……) そう聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、夢でも見ているのではないかと錯覚し、自分の頬をつねる。あれだけ会うのを躊躇していた|墨余穏《モーユーウェン》だったが、いざ水仙の花を目の前にすると非常に眺めが美しく、心が躍った。 「|墨逸《モーイー》。茶だ。飲むといい」 |師玉寧《シーギョクニン》は卓の椅子に腰掛け、自らも淹れたての茶を啜る。|墨余穏《モーユーウェン》は寝台から降り、|師玉寧《シーギョクニン》と向かい合うようにして椅子に座った。 揺蕩う湯気が心地良く、|墨余穏《モーユーウェン》は「いただきます」と言って茶をそっと口に含んだ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》はすっかり忘れていた。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》で出される茶は、苦くて有名な一葉茶であることを。 目の前にいる|水仙玉君《すいせんぎょくくん》は、水を啜っているかの如く、何一つ表情を変えない。 茶器を握りしめたまま続きの一口が飲めないでいると、見兼ねた|師玉寧《シーギョクニン》が、くぐもった声で一言放った。 「最後まで飲め」 |墨余穏《モーユーウェン》は片方だけ口角を吊り上げながら、苦笑いを浮かべる。飲めないなどとは言わせない圧が、短い言葉から滲み出ていた。 |墨余穏《モーユーウェン》は一息置いて、一気に飲み干す。 (うぅ……、まっず……) すぐに俯き、しばらく顔を上げられないままでいると|師玉寧《シーギョクニン》が卓の上に一枚の呪符を置いた。 「|墨逸《モーイー》。これはお前のか?」 |墨余穏《モーユーウェン》はゆっくり顔を上げて、「うん」と答える。続けて「なんで持ってんの?」と尋ねた。 |師玉寧《シーギョクニン》は、黄玉の目を細めながら答える。 「黄山で拾った。呪符はちゃんと回収しろ。誰かに悪用される」 「ないない。俺の呪符は強力だし、誰にも真似できないよ」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》を一瞥しながら、小さく溜息をつく。 天台山に所属する門派、天流会の者たちは、古くから呪符は必ず回収するよう掟に定められている。上級の強力な呪符を異国者や修仙者以外の者に触れさせない為だ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は、その事について忘れてしまっているのか、意気揚々と続ける。 「それに、俺凄くない? あんなでっかい幻獣を一人で倒したんだよ! ねぇ、少しは褒めてよー。|賢寧《シェンニン》兄ぐらいじゃないと倒せないでしょ?」 「あんな幼獣を倒したところで強くなったと思うな」 相変わらず氷瀑の如く鋭い刃を持った|師玉寧《シーギョクニン》の言葉に、|墨余穏《モーユーウェン》はムスッと下唇を突き出した。 そんな様子など見向きもしない|師玉寧《シーギョクニン》は、白い包子が二つ乗った皿を卓の上に置く。 「ん?これは?」 |墨余穏《モーユーウェン》は、視線を合わせてくれない|師玉寧《シーギョクニン》の目を追うように尋ねた。 |師玉寧《シーギョクニン》は自分の分の包子を手に取って半分に割り、「苦参が入った包子だ」と言って、一口齧り付く。 苦参と聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、絶句しながら思わず目を見開いた。 (何でそんな苦い薬草をぶち込むんだ?! 普通は肉だろ……) |墨余穏《モーユーウェン》は落胆するように眉を垂れ下げて、仕方なく頬張った。 天は二物を与えずとは正にこういうことを言うのだろう。 十全十美の|師玉寧《シーギョクニン》に、天は味覚音痴と料理下手という才を与えた。そんな|師玉寧《シーギョクニン》はというと、あっという間に包子を食べ終え、静かに書物を広げて何かを書き記す。 「ねぇ、何書いてんの?」 「妖魔が出た日付と場所だ」 |墨余穏《モーユーウェン》は包子を咥えながら、|師玉寧《シーギョクニン》の背後に周り、上から覗き込むように書物を眺めた。 「昔からまめだね、|賢寧《シェンニン》兄は」 そう言いながら、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の横顔に自分の顔を近づけるが、何を思ったのか|師玉寧《シーギョクニン》は避けるかのように書物を閉じ、本棚へ戻しに席を立った。 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の背中を一瞥し、「ふんっ」と鼻を鳴らす。 「ところで、|賢寧《シェンニン》兄。|青鳴天《チンミンティェン》と一緒にいた|阿可《アーグァ》って奴は何者なの? そいつ、抜け殻だけ残して消えたんだよ! 投げた|峨嵋刺《かびし》で胸を射抜いたのにさ」 「うん。 奴らは三神寳を盗めるぐらいだ。超人であることは間違いない。この突厥たちは、様々な国に行っては財宝を盗み、それを駆け引きに力を得ている。我々が大切に守ってきた三神寳も、奴らは新羅(韓国)の物だと言い張っているようだ」 「新羅? どうして急に?」 |墨余穏《モーユーウェン》は全く理解できないといった様子で頬杖をつく。|師玉寧《シーギョクニン》は本棚に背を向けて、その場から続けた。 「皇帝が代理に変わった事が原因だろう」 「|李高祖《リーガオソ》じゃないのか?」 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく首を振りながら、元居た場所へ戻り、また苦い一葉茶を自分の茶杯に注ぎ始める。 「|李世《リーヨ》という腹違いの末っ子だ」 「李世ってあの幼い頃から美男子だった奴か?」 美男子と聞いて、|師玉寧《シーギョクニン》の顔が一瞬曇った。そんな師玉寧の表情を全く見ていなかった|墨余穏《モーユーウェン》は、「でも、どんな顔してたっけ?」と人差し指を頬に当てながら、記憶を巡らせている。 李皇帝には、皇子が三人いるのだが、これが残念なことに三人とも腹違いの兄弟な為、不倶戴天の仲なのだ。政になると頭を抱える李皇帝は、普段から天台山の長座・道玄天尊に教授を仰いでいた。そこで、一番穏やかで素直な末の皇子を推薦し、代理に仕立てたようだ。 「何で代理なんか立てたんだ?」 「李皇帝が何者かに毒を煽られたそうだ。それからずっと、静養なさっている」 いつの世も皇帝の争い事は絶えずよくある話だ、と|墨余穏《モーユーウェン》は人ごとのように「ふぅ〜ん」と言った。 十年もすれば、世勢は当然のように変わる。 目の前にいる水仙も門主になり、妾や子がいてもおかしくはない年頃だ。 自分だけが十年前のまま置いていかれているような気になっていたが、目の前にいるこの水仙は何も変わっていないようで、|墨余穏《モーユーウェン》はそれが唯一の救いだった。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》が外の庭を眺めながら、独り言のように呟く。 「ここ最近。いろんな事が立て続けに起きている。突厥の襲来、三神寳の盗難、皇帝内の紛争、そして墨逸。お前がここにいることだ」 「俺も何か関わっているってこと?」 「分からんが、今はあまり派手に動くな」 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言うと、重い腰を上げるように立ち上がり、壁に掛けてあった長袖を羽織りながら続ける。 「私は今から|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の所へ行く。|墨逸《モーイー》、お前はもう少し横になって休んでいろ。お前は恐らくこのあと熱を出す。何かあればこの神通符で|一恩《イーエン》を呼べ。すぐに駆けつけるようにさせる」 そう言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は凍りそうな冷たい空気だけを残して部屋を出ていった。 (|香翠天尊《シィアンツイてんずん》……) |墨余穏《モーユーウェン》はその人物の名を聞いて、胸がチクリと痛んだ。 そう。|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は天台山にいる|道玄天尊《ドウゲンてんずん》の妹であり、|師玉寧《シーギョクニン》が前世から想いを寄せている女性だ。 前世でも|師玉寧《シーギョクニン》は頻繁に|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の元を訪れていた。気になって後をつけて見に行ったことがあったが、自分には見せない笑みを湛え、仲睦まじく笑い合っていた姿が今も忘れられない。 今もまだ想いを寄せているのか、と|墨余穏《モーユーウェン》は落胆し、晴れやかだった心の蕾が萎んだ。 「はっくしゅん!」 |墨余穏《モーユーウェン》は言われた側から、くしゃみを飛ばす。部屋も冷たさが増し、身体も心も完全に冷え始めた。 (あぁ〜、何なんだよ……ったく) |墨余穏《モーユーウェン》は衣の上から腕を摩りながら|師玉寧《シーギョクニン》の寝台へもう一度上がり、布団に包まる。|師玉寧《シーギョクニン》の残り香だけを頼りに|墨余穏《モーユーウェン》は、熱っていく身体を解放するかのように、ゆっくりと目を閉じた。それから間も無くして天台山は大きな観音廟として新しく建立され、全て寒仙雪門が管轄することとなった。 三神寳と|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》は同じ廟で祀られ、かつての|香翠天尊《シィアンツイてんずん》と|深月天尊《シェンユエてんずん》も成仏するという意味で違う廟に位牌が納められた。かつての緑琉門にいた|葉風安《イェフォンアン》たちの位牌も天台山に集約され、いつでも故人を偲べるように配慮した。 それぞれの門派はというと、大篆門の門主・|高書翰《ガオシューハン》は道玄天尊の後を追うようにこの世を去り、後継者がいないという理由で大篆門は閉門となった。 金龍台門は|金冠明《ジングァンミン》が正式に門主となり、新しく家督を担ぐこととなった。あの邪教の鳥鴉盟はというと、盟主の死によって強制的に閉門。罪を犯した者は流刑され、その後も|師玉寧《シーギョクニン》が厳しく罰した。 寒仙雪門では、|墨余穏《モーユーウェン》が正式に寒仙雪門に入内し、師玉寧の伴侶となった。 |墨余穏《モーユーウェン》は相変わらず、玉庵のカウチでゴロゴロしながら、|師玉寧《シーギョクニン》の美しい横顔を眺めている。入内してからというもの、常に一緒にいる為あんなに嫌いだった一葉茶も難なく飲めるようになった。 一葉茶を喉に通すと、|墨余穏《モーユーウェン》はふと尋ねる。「ねぇ、|賢寧《シェンニン》兄。|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていたシユって人は誰なの?」「ハンリ殿から聞いた話なんだが、道玄天尊が若き頃に人攫いに遭った若き先代と幼女のハンリ殿を助けたそうだ。それからしばらく天台山で面倒を見ていたそうで、道玄天尊と先代は互いに恋慕を抱いたそうだが、叶わぬ悲恋で終わったらしい。その時抱いた悲しみとこの想いは永遠に忘れないという意味で、道玄天尊の|神漣剣《しんれんけん》と先代の|神翼鏡《しんよくきょう》、それぞれの秘宝に特殊な守護術を封じて三神寳として祀ったらしい」「へぇ〜。なんか深い愛だなぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》はしみじみと目を細めながら、一葉茶を啜った。 庭から入ってきた黄色い蝶が|師玉寧《シーギョクニン》の人差し指に止まる。「想いが強ければ強いほど、失う痛みは大きい。私は道玄天尊のお気持ちが凄くよく分かる」「だから、俺が死んだ後閉関してたんだ……」 黄色い
|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は言うまでもなく、無惨な姿となって力尽きた。 |道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の凄まじい威力を見せつけられた|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、その場で喫驚していた。 「いやはや、たまげたね〜。何という威力と人情劇なんだ。素晴らしいよ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》さんよ。守ってきた盟主と実の妹を手に掛けるなんて、|李世《リーヨ》君といい、二人はお心が強いの〜」 ひどく感嘆した様子で拍手をするように、|呂熙《リューシー》は胸の前で鉤爪を鳴らした。 しかし、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》はこれまでの力を使い果たしてしまったのか、突然吐血しその場に項垂れてしまった。一緒に来ていた天台山の道士たちが駆けつけるも、いつ力尽きてもおかしくない様子だ。「滑稽だなぁ。天尊と呼ばれた高貴なお方も所詮はただの人間。人間の裁量などその程度なものなのだよ」 口元を一文字に引き結んで、|呂熙《リューシー》は気怠く言う。凝り固まった首をゴリっと鳴らすと、|墨余穏《モーユーウェン》に向かって濁った目を据わらせた。「さぁ、とっとと終わらせようじゃないか」「そうだな。俺も早く終わらせて、|師玉寧《シーギョクニン》と三礼の儀をしたいからさ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》は何の躊躇もなく真顔で言うと、その言葉を聞いていた|李世《リーヨ》は顔を顰め、「こんな奴と三礼なんて世も末だ!」と吐き捨てた。 すると、凍てつく光芒を放った剣が|李世《リーヨ》の頬を掠め、|李世《リーヨ》の背後にあった大木に勢いよく突き刺さった。「減らず口も大概にしないか」 重厚感のある低い声で、|師玉寧《シーギョクニン》は|李世《リーヨ》を凍らすように一瞬で黙らせる。 |師玉寧《シーギョクニン》の気迫に恐れ慄いたのか、|李世《リーヨ》はガタガタと歯を震わせ始め、それ以降口を閉ざした。|師玉寧《シーギョクニン》は念の為、|李世《リーヨ》の身体に字符を貼り付け、身動きを封じた。「あはははっ! 美人を怒らすと怖いってことを肝に銘じておけ、世間知らずの坊ちゃんよ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》はケラケラとそう言い終えると、|豪剛《ハオガン》から譲り受けた剣を鞘からスルッと抜き出し、刃先を|呂熙《リューシー》に向けた。 何があっても|呂熙
懇ろな関係になった|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、二人で飲んだ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の同化呑術の効果も相まって、無敵だと言わんばかりに勢いをつけていた。 鳥鴉盟たちから決闘状が寒仙雪門に届いたのは、あれから数日経ったある日の事だった。 「いよいよだな、|墨逸《モーイー》」 「そうだね、まぁ大丈夫っしょ。俺ら最強だし。ただ、|賢寧《シェンニン》兄の好きだったお姉さんを始末しなきゃなんないからな〜。どうなるんだか」 |墨余穏《モーユーウェン》が横目に冗談めかして言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は一葉茶を啜りながら目を細めた。 「私が好きだった? 何かの間違いではないか? 私はいつも、力を封じ込められてしまっていただけだ」 「え? 見つめていたじゃん。こう、好きで好きで堪らないって感じで〜」 相手を弄るように、|墨余穏《モーユーウェン》はジーっと|師玉寧《シーギョクニン》を見つめる。 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく鼻息を漏らし、やれやれと言った様子で首を横に振った。「動きを止められていただけだ。その時から気づいていた。この人は、人間の動きを瞬時に止める力があるのだと。だから、そこをいかに打破するかが重要だ」 「あはははっ! 余裕だって。あの人たちには弱点があるんだ。それを全面に出せば、皆途端に弱くなる」 眉間に皺を寄せた|師玉寧《シーギョクニン》は、何を企んでいるんだ? とでも言いたげに|墨余穏《モーユーウェン》を見遣る。 「まぁ、後で見ててよ。とりあえず、突厥は崑崙山の爺ちゃん先生たちに任せて、|賢寧《シェンニン》兄はカラス達を頼むよ。そうだ、大篆門の門主は来るの?」 「いや、|高書翰《ガオシューハン》門主は来ないだろう。大病を患ったと知らせを受けた。来れたとしても|黄轅《コウエン》師範が黙っていないはずだ」 「確かに。友人を追い出した門派に情はないだろうね」 |墨余穏《モーユーウェン》は他人事のように言い終えると、書き留めておいた呪符を胸元に仕舞った。 |黄轅《コウエン》に磨いてもらった|豪剛《ハオガン》の剣も持って、|師玉寧《シーギョクニン》の支度を扉の前で待つ。 恐らくこの戦いで、長年続いた天台山の歴史は幕を下ろすだろう。今まで保たれていた統治は完全に崩壊し
目を覚ました|墨余穏《モーユーウェン》は、|黄轅《コウエン》が言っていた翡翠泉へ向かっていた。 ようやく連日連夜の修行から解放された|墨余穏《モーユーウェン》は、込み上げる疲れを感じると同時に、己の心身が一回りも二回りも大きくなっていることに気づく。 体が重くなっていることは薄々気づいてはいたが、こんなにも厚みがあっただろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は自分で、自分の逞しくなった二の腕や太腿を触ってみる。 |黄轅《コウエン》先生の鬼の修行は筋肥大にもなるのだなぁ、と内なる力を全面に引き出してくれた|黄轅《コウエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず感嘆の息を漏らした。 そんな修行の成果を噛み締めながら歩いていると、生い茂る草むらから澄み切った翡翠の色をした泉が見えてきた。 少し奥へと進むと水面を激しく打ちつける滝の音が聞こえてくる。滝の側まで行くと、その辺りは白い湯気が漂っており、墨余穏は指先を泉に入れて温度を確かめた。「お、あったかいじゃないか! 珍しいな、温泉の滝なんて」 |墨余穏《モーユーウェン》は独り言を言いながら、衣を脱ぎ始めた。露わになった傷だらけの身体をゆっくり泉の中に沈め、痛みを堪える。 滝の側までゆっくり移動し、|墨余穏《モーユーウェン》はしばらく傷に染みていく痛みと戦いながら泉に浸かった。 すると、ちゃぽんと水面を鳴らしながら何者かがこちらに向かって歩いてくるのが分かった。|墨余穏《モーユーウェン》は女性かもしれないと思い、そっと滝の裏側にある空洞に身を隠した。 歩き方がゆっくりでどこかぎこちない。 女性というよりも老人か誰かだろうと様子を見ていると、白い肌をした長身の美しい男が現れた。 |墨余穏《モーユーウェン》の胸が打ち破るように高鳴った。 どうしてここに……。 どうしてここに、|師玉寧《シーギョクニン》が居るんだ?! |墨余穏《モーユーウェン》は、「何してるんだ? |賢寧《シェンニン》兄!」 と思わず叫ぶ。 目の前に突如現れた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、師玉寧も目を丸くしていた。「傷が治ると聞いた」 「誰に?」「雲師の|黄轅《コウエン》師範に」 記憶が戻っているのだと確信した|墨余穏《モーユーウェン》は、「俺のことは分かるか?」と尋ねた。 すると、|師玉寧《シーギョクニ
翌朝、|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に|金王《ジンワン》から受け取った十包の薬を渡し、修行先である|崑崙山《こんろんざん》へ再び戻ることを伝えた。 「そんな。寒仙雪門には部屋もいくつかありますし、今すぐお戻りにならなくても……」 「いや、時間が無いんだ。|賢寧《シェンニン》兄が回復したら、すぐに鳥鴉盟のところへ行かなきゃならない。今のうちに修行しておきたいんだ」 |墨余穏《モーユーウェン》は先輩らしく、安心させるような逞しい笑みを見せて、|一恩《イーエン》の両肩を軽く叩いた。 そこまでしてどうしてですか、と肩を落とす|一恩《イーエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は頬を掻きながら照れ臭く言う。「好きな人の前ではカッコつけたいだろ」 賢い|一恩《イーエン》は顔と耳を瞬時に赤らめ、「そうですね」と言った。 続けて、何かを思い出したかのように、突然「あ!」と切り出す。「何だよ、急に」「|師《シー》宗主のお部屋を綺麗にしていた時、萎れた一輪の水仙が落ちていました。あれは、恐らく|墨逸《モーイー》先輩が持って来られたものですよね? 拾って小さな瓶に入れておいたら見事に咲き戻りまして……」「……」「……それを|師《シー》宗主の枕元に置いておいたら、昨日それをずっと穏やかな目で眺めてらっしゃいました。ご記憶が戻るのも時間の問題かもしれません」 |墨余穏《モーユーウェン》は少し間を置いて、「……だといいな」と言って小さく微笑んだ。記憶の片隅に残っている物を見ると、過去の記憶が蘇る話はよく聞く。|墨余穏《モーユーウェン》にも、一筋の希望の光が見えた気がした。「じゃ、|一恩《イーエン》。あとは頼んだぞ。何かあれば、また知らせてくれ」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、手を振りながら寒仙雪門を後にし、乗蹻術を放出して|黄轅《コウエン》のいる崑崙山へ向かった。 ◆ ほんの数日で戻ってきた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、|黄轅《コウエン》は驚いた!「|墨逸《モーイー》! もういいのか?」「あ、|黄轅《コウエン》先生! いやぁ〜、それが……」 |墨余穏《モーユーウェン》は頭を掻きながら、|師玉寧《シーギョクニン》が思った以上に深刻であることを報告した。 そして一番恐れていた黒幕の正体も。「やはり、私の読み通りか。
床に落ちた萎れた水仙の花に気づかず、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを踏み付けて、|師玉寧《シーギョクニン》のいる荒れた寝台へ向かった。 「|賢寧《シェンニン》兄、俺だよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は愛猫を愛でるかのような表情を見せて、優しく問いかけた。 以前のように何気なく|師玉寧《シーギョクニン》の肩に触れようと手を伸ばすが、煩わしいハエでも払いのけるかのように、力強く|師玉寧《シーギョクニン》に阻止される。 「誰だ! 貴様は! 知らない者が私に勝手に触れようとするな! 穢らわしい!」 |知らない者《・・・・・》と言われた|墨余穏《モーユーウェン》は「ごめん……」と言って、僅かに震える手を引っ込めた。 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度、|師玉寧《シーギョクニン》に話しかける。 「知らないだなんて酷いなぁ〜。|賢寧《シェンニン》兄とずっと一緒にいた|墨逸《モーイー》だよ。本当に俺のこと忘れちゃったの?」 「知らないと言ったら知らない。用がなければ早く出て行ってくれ!」 どうやら、本当に|師玉寧《シーギョクニン》は記憶を失くしてしまっているようだ。|一恩《イーエン》曰く、特定の人物だけの記憶を失くしている訳ではなく、自分が何者かであることも忘れてしまっているらしい。 |墨余穏《モーユーウェン》は窓を開け、日差しの光で輝きを放っている埃たちを外へ追いやった。 「分かった、分かった! 俺は出て行くから、その代わりこの部屋を綺麗にさせてよ。ほら、見てよ! 凄い埃。こんな所にずっと居たらその傷も治んないよ。手当てもし直したいし、あなたは少しそこのカウチに横になって休んでもらってていいから、ね? |一恩《イーエン》」 「は、はい! 私たちが全てお綺麗にしますので、お気になさらずどうぞこちらでお休みに……」 |一恩《イーエン》は鼻を啜りながら、カウチを案内するように両手を向ける。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は黙ったまま、腹の痛みを抑えながら寝台から足を出した。 「手を貸そうか?」と|墨余穏《モーユーウェン》は尋ねるも、|師玉寧《シーギョクニン》は「触れるな」の一点張りだった。|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に掃除道具や処置に必要なもの、身体を拭く湯などいくつか持