LOGIN寒仙雪門の冷風に乗って舞い踊る水仙の甘い香りが部屋中を漂い、|墨余穏《モーユーウェン》の鼻の奥をつんと冷やす。
ゆっくりと目を開け、豪華な白い紗が幾重にも重なった洒落た天井を見遣る。 (ここは……) 「目が覚めたか」 透き通った聞き覚えのある美声が、脳天に降りてくる。 |墨余穏《モーユーウェン》はムクっと上体を起こし、カチャカチャと音のする方に目を向けると、仏頂面な顔で|師玉寧《シーギョクニン》が茶を淹れていた。 「ここは?」 「私の私室だ」 (ここが、建て直したと言っていた玉庵か……) そう聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、夢でも見ているのではないかと錯覚し、自分の頬をつねる。あれだけ会うのを躊躇していた|墨余穏《モーユーウェン》だったが、いざ水仙の花を目の前にすると非常に眺めが美しく、心が躍った。 「|墨逸《モーイー》。茶だ。飲むといい」 |師玉寧《シーギョクニン》は卓の椅子に腰掛け、自らも淹れたての茶を啜る。|墨余穏《モーユーウェン》は寝台から降り、|師玉寧《シーギョクニン》と向かい合うようにして椅子に座った。 揺蕩う湯気が心地良く、|墨余穏《モーユーウェン》は「いただきます」と言って茶をそっと口に含んだ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》はすっかり忘れていた。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》で出される茶は、苦くて有名な一葉茶であることを。 目の前にいる|水仙玉君《すいせんぎょくくん》は、水を啜っているかの如く、何一つ表情を変えない。 茶器を握りしめたまま続きの一口が飲めないでいると、見兼ねた|師玉寧《シーギョクニン》が、くぐもった声で一言放った。 「最後まで飲め」 |墨余穏《モーユーウェン》は片方だけ口角を吊り上げながら、苦笑いを浮かべる。飲めないなどとは言わせない圧が、短い言葉から滲み出ていた。 |墨余穏《モーユーウェン》は一息置いて、一気に飲み干す。 (うぅ……、まっず……) すぐに俯き、しばらく顔を上げられないままでいると|師玉寧《シーギョクニン》が卓の上に一枚の呪符を置いた。 「|墨逸《モーイー》。これはお前のか?」 |墨余穏《モーユーウェン》はゆっくり顔を上げて、「うん」と答える。続けて「なんで持ってんの?」と尋ねた。 |師玉寧《シーギョクニン》は、黄玉の目を細めながら答える。 「黄山で拾った。呪符はちゃんと回収しろ。誰かに悪用される」 「ないない。俺の呪符は強力だし、誰にも真似できないよ」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》を一瞥しながら、小さく溜息をつく。 天台山に所属する門派、天流会の者たちは、古くから呪符は必ず回収するよう掟に定められている。上級の強力な呪符を異国者や修仙者以外の者に触れさせない為だ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は、その事について忘れてしまっているのか、意気揚々と続ける。 「それに、俺凄くない? あんなでっかい幻獣を一人で倒したんだよ! ねぇ、少しは褒めてよー。|賢寧《シェンニン》兄ぐらいじゃないと倒せないでしょ?」 「あんな幼獣を倒したところで強くなったと思うな」 相変わらず氷瀑の如く鋭い刃を持った|師玉寧《シーギョクニン》の言葉に、|墨余穏《モーユーウェン》はムスッと下唇を突き出した。 そんな様子など見向きもしない|師玉寧《シーギョクニン》は、白い包子が二つ乗った皿を卓の上に置く。 「ん?これは?」 |墨余穏《モーユーウェン》は、視線を合わせてくれない|師玉寧《シーギョクニン》の目を追うように尋ねた。 |師玉寧《シーギョクニン》は自分の分の包子を手に取って半分に割り、「苦参が入った包子だ」と言って、一口齧り付く。 苦参と聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、絶句しながら思わず目を見開いた。 (何でそんな苦い薬草をぶち込むんだ?! 普通は肉だろ……) |墨余穏《モーユーウェン》は落胆するように眉を垂れ下げて、仕方なく頬張った。 天は二物を与えずとは正にこういうことを言うのだろう。 十全十美の|師玉寧《シーギョクニン》に、天は味覚音痴と料理下手という才を与えた。そんな|師玉寧《シーギョクニン》はというと、あっという間に包子を食べ終え、静かに書物を広げて何かを書き記す。 「ねぇ、何書いてんの?」 「妖魔が出た日付と場所だ」 |墨余穏《モーユーウェン》は包子を咥えながら、|師玉寧《シーギョクニン》の背後に周り、上から覗き込むように書物を眺めた。 「昔からまめだね、|賢寧《シェンニン》兄は」 そう言いながら、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の横顔に自分の顔を近づけるが、何を思ったのか|師玉寧《シーギョクニン》は避けるかのように書物を閉じ、本棚へ戻しに席を立った。 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の背中を一瞥し、「ふんっ」と鼻を鳴らす。 「ところで、|賢寧《シェンニン》兄。|青鳴天《チンミンティェン》と一緒にいた|阿可《アーグァ》って奴は何者なの? そいつ、抜け殻だけ残して消えたんだよ! 投げた|峨嵋刺《かびし》で胸を射抜いたのにさ」 「うん。 奴らは三神寳を盗めるぐらいだ。超人であることは間違いない。この突厥たちは、様々な国に行っては財宝を盗み、それを駆け引きに力を得ている。我々が大切に守ってきた三神寳も、奴らは新羅(韓国)の物だと言い張っているようだ」 「新羅? どうして急に?」 |墨余穏《モーユーウェン》は全く理解できないといった様子で頬杖をつく。|師玉寧《シーギョクニン》は本棚に背を向けて、その場から続けた。 「皇帝が代理に変わった事が原因だろう」 「|李高祖《リーガオソ》じゃないのか?」 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく首を振りながら、元居た場所へ戻り、また苦い一葉茶を自分の茶杯に注ぎ始める。 「|李世《リーヨ》という腹違いの末っ子だ」 「李世ってあの幼い頃から美男子だった奴か?」 美男子と聞いて、|師玉寧《シーギョクニン》の顔が一瞬曇った。そんな師玉寧の表情を全く見ていなかった|墨余穏《モーユーウェン》は、「でも、どんな顔してたっけ?」と人差し指を頬に当てながら、記憶を巡らせている。 李皇帝には、皇子が三人いるのだが、これが残念なことに三人とも腹違いの兄弟な為、不倶戴天の仲なのだ。政になると頭を抱える李皇帝は、普段から天台山の長座・道玄天尊に教授を仰いでいた。そこで、一番穏やかで素直な末の皇子を推薦し、代理に仕立てたようだ。 「何で代理なんか立てたんだ?」 「李皇帝が何者かに毒を煽られたそうだ。それからずっと、静養なさっている」 いつの世も皇帝の争い事は絶えずよくある話だ、と|墨余穏《モーユーウェン》は人ごとのように「ふぅ〜ん」と言った。 十年もすれば、世勢は当然のように変わる。 目の前にいる水仙も門主になり、妾や子がいてもおかしくはない年頃だ。 自分だけが十年前のまま置いていかれているような気になっていたが、目の前にいるこの水仙は何も変わっていないようで、|墨余穏《モーユーウェン》はそれが唯一の救いだった。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》が外の庭を眺めながら、独り言のように呟く。 「ここ最近。いろんな事が立て続けに起きている。突厥の襲来、三神寳の盗難、皇帝内の紛争、そして墨逸。お前がここにいることだ」 「俺も何か関わっているってこと?」 「分からんが、今はあまり派手に動くな」 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言うと、重い腰を上げるように立ち上がり、壁に掛けてあった長袖を羽織りながら続ける。 「私は今から|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の所へ行く。|墨逸《モーイー》、お前はもう少し横になって休んでいろ。お前は恐らくこのあと熱を出す。何かあればこの神通符で|一恩《イーエン》を呼べ。すぐに駆けつけるようにさせる」 そう言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は凍りそうな冷たい空気だけを残して部屋を出ていった。 (|香翠天尊《シィアンツイてんずん》……) |墨余穏《モーユーウェン》はその人物の名を聞いて、胸がチクリと痛んだ。 そう。|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は天台山にいる|道玄天尊《ドウゲンてんずん》の妹であり、|師玉寧《シーギョクニン》が前世から想いを寄せている女性だ。 前世でも|師玉寧《シーギョクニン》は頻繁に|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の元を訪れていた。気になって後をつけて見に行ったことがあったが、自分には見せない笑みを湛え、仲睦まじく笑い合っていた姿が今も忘れられない。 今もまだ想いを寄せているのか、と|墨余穏《モーユーウェン》は落胆し、晴れやかだった心の蕾が萎んだ。 「はっくしゅん!」 |墨余穏《モーユーウェン》は言われた側から、くしゃみを飛ばす。部屋も冷たさが増し、身体も心も完全に冷え始めた。 (あぁ〜、何なんだよ……ったく) |墨余穏《モーユーウェン》は衣の上から腕を摩りながら|師玉寧《シーギョクニン》の寝台へもう一度上がり、布団に包まる。|師玉寧《シーギョクニン》の残り香だけを頼りに|墨余穏《モーユーウェン》は、熱っていく身体を解放するかのように、ゆっくりと目を閉じた。それから|墨余穏《モーユーウェン》は、全てを失ったかのような複雑な感情を抱いたまま、|崑崙山《こんろんざん》へ向かった。『一人になりたい』という言葉は、|師玉寧《シーギョクニン》にとっては、拒絶とも取れる言葉なのだろう。 どうして相談もせず口走ってしまったのだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》は自分の放ってしまった言葉に、酷く後悔した。 ただ、やはり|師玉寧《シーギョクニン》は|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に想いを寄せているのだと、|墨余穏《モーユーウェン》は確信する。あの目の憂い、落胆するような仕草は、香翠天尊に何かしらの情があるからに違いない。 最愛の人が疑われるのは、|師玉寧《シーギョクニン》にとって心底心外だっただろう。 だが、|墨余穏《モーユーウェン》はどうしてもそれを拭い去ることができなかった。 金龍台門へ行く前、天台山で|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に襟元を整えてもらった時、何か特殊な力を感じた。 僅かだが、|天晋《ティェンシン》からも香翠天尊と同じ温度みたいなものを感じたのだった。 |師玉寧《シーギョクニン》にこの僅かな変化を伝えられたら良かったのかもしれないが、もう後の祭りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり後悔した後、峻険な崑崙山の中腹まで|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って飛び立った。 前世の記憶を辿り、林の中をひたすら歩いていく。 すると、確かに記憶に残っていた家屋が木々の隙間から薄らと見え始めた。 (あそこだ! ) |墨余穏《モーユーウェン》は木々を掻き分けて颯爽と向かう。 家屋の敷地に到着すると、何か擦れる音が庭先から聞こえてきた。その音の方に向かって歩いていくと、中年の男が石に座って剣を磨いているではないか。 |墨余穏《モーユーウェン》は口元を緩ませ、名前を呼ぶ。「|黄轅《コウエン》先生!」 すると、中年の男は驚いた様子で|墨余穏《モーユーウェン》の方に振り向いた。 目を細め、まじまじと|墨余穏《モーユーウェン》を眺めると、研いでいた剣を放っぽり出してこちらに向かって来る。 「|豪剛《ハオガン》の|墨逸《モーイー》か?! おっと、たまげた! 本当に墨逸じゃないか〜!!」 |黄轅《コウエン》は目尻を垂れ下げた満面の笑みを浮かべて、|墨余穏《モーユーウェン》を抱き寄せた。
おぼつかない足取りで|墨余穏《モーユーウェン》は、|葉風安《イェフォンアン》の元へ向かう。 葉風安の冷たくなった血塗れの頭部を拾うと、墨余穏はその場で崩れ落ち、葉風安を抱きしめながら深い愁いに沈む。その姿を見ていた|師玉寧《シーギョクニン》も目潤わせ、天を仰いで長嘆した。 憂愁に閉ざされた緑琉門は深い悲しみに包まれる。 一つの門派がこのような形で閉門するなど、誰が想像していただろうか……。未だこの現実を受け止めきれない門弟たちは、いよいよ、本格的に天台山は統治を保てなくなってきたかもしれないと、落胆の声を上げた。 その中、毅然と振る舞う数名の門弟たちの手によって三人の遺体は、|葉誉《イェユー》が信仰していた道観に綺麗にまとめられた。 天台山で供養してもらう為、残っていた一部の魂魄を霊符に納め、皆で黙祷する。 しばらくして厳かな風が吹き抜けると、|葉誉《イェユー》の側近だったという一人の男が、その霊符を|師玉寧《シーギョクニン》に渡した。「|師《シー》門主……。これから我々門派は、衰運の一途をたどるでしょう。どうか私たち緑琉門のこの無念、あなた様の手で晴らしていただきたい……。天台山の安寧を祈ります」 側近に倣い、そこにいた全ての緑琉門の門弟たちが|師玉寧《シーギョクニン》に深く頭を下げた。 |師玉寧《シーギョクニン》も受け取った霊符を白い布で包むと、緑琉門の門弟たちに深く頭を下げた。 |墨余穏《モーユーウェン》は、床に落ちていた一枚の鮮やかな翠緑の羽を見つけ、そっと拾い上げる。両面をひらひらと眺めながら、|葉風安《イェフォンアン》の面影を記憶から呼び覚まし、瞼の裏に葉風安を映す。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり|葉風安《イェフォンアン》を感じた後、彼の形見としてそれを胸元に仕舞った。 それから|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は緑琉門を後にし、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って天台山へ向かった。 二人の間に会話はなく、相変わらず重い空気だけが流れている。 道中、墨余穏はある事を思い出し、ふと口を開いた。 「そういえば、|一恩《イーエン》たちはどうしたんだ? 先に緑琉門に向かっていたはずじゃ?」 |師玉寧《シーギョクニン》は少し間を空けて答える。「急遽、天台山へ行かせた」「天台山? 何
腹部を刺された|葉風安《イェフォンアン》はその瞬間、ずっと待ち侘びていた|墨余穏《モーユーウェン》の姿を捉えた。 記憶の中に沈めていた思い出が走馬灯のように駆け巡り、|墨余穏《モーユーウェン》が見せる絶望的な眼差しを見る。 天流会で助けてくれたあの日から、|葉風安《イェフォンアン》は|墨余穏《モーユーウェン》に想いを寄せていた。 |師玉寧《シーギョクニン》とは違う端麗な面持ちと、風が吹き抜けるような爽やかな笑みに何度も心を奪われ、脆い心に自ら心地よい風を吹かせた。墨余穏だけは常に特別であり、気まぐれな彼がいつ来ても良いようにと、緑琉門の厳重な門符を解き、私室も開放した。 数え切れない程の時間を共にし、ようやく心づもりができたと思った矢先だった。小夜嵐が軒を鳴らすように|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだという知らせが届いた。 この時、葉風安は絶望を超えた喪失感に襲われ、この世に風が存在していることすら忘れてしまう程途方に暮れた。 |葉風安《イェフォンアン》はどうにかして、|墨余穏《モーユーウェン》の魂魄を呼び戻せないかと|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の元へ悲願しに行ったが、どうしてか魂魄は見つからず、手掛かりが掴めないまま十年が過ぎてしまった。 その間に、自分と同じ気持ちでいた人が別にいたことを風の噂で聞き、それがまた敵わない相手だと知った|葉風安《イェフォンアン》は、悲恋を抱いた。 目の前にいる二人の関係性を崩す訳にはいかないと、|葉風安《イェフォンアン》は一人、自分の心に木枯らしを吹かせ、二人の幸せを願った。 「|風立《フォンリー》!!」 |墨余穏《モーユーウェン》の叫ぶ声が鳴り響く。 |葉風安《イェフォンアン》は墨余穏の声に応えるように、ほんの僅かに口元を緩ませると、口から物凄い勢いで鮮血を吐き出し、意識を失くした。 側にいた|呂熙《リューシー》が更に追い討ちをかけるかのように、鉤爪で固定していた葉風安の首を切断した。 目の前の惨劇に驚愕した|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず叫ぶ! かつてないほどの殺気を込めて胸元から呪符を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》は|呂熙《リューシー》の元に飛び掛かった。強力な神呪で呂熙の身動きを封じた後、次に墨余穏は動きを変え、|青鳴天《チンミ
「シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「人様の家で何をしている」 |師玉寧《シーギョクニン》の目は据わり、幾重にも連なる氷瀑の先が今にも頭上に落ちてきそうな刺々しい雰囲気を纏っている。|墨余穏《モーユーウェン》は額に冷や汗を滲ませ、口元を引き結ぶ。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は続けた。 「何故、勝手に出て行った?」 「そ、それは……」「何だ?」「俺がいると迷惑かなっと思って……」 視線を合わすことに耐えかねた|墨余穏《モーユーウェン》は、俯きながら|師玉寧《シーギョクニン》から向けられる冷たい視線を逸らした。 師玉寧は深く溜め息を吐き、墨余穏に言う。「私がいつ迷惑だと言った?」「……だって、俺がずっと側にいたらさ|賢寧《シェンニン》兄の好きな人が嫌がるでしょ。だから、俺とは居ない方が……」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮ったと思ったら、墨余穏の胸ぐらを勢いよく掴んで逞しく引き締まった己の身体に引き寄せた!「私に二度と心配をかけさせるな!! 分かったか!!」 深雪のような白い肌が血に染まるが如く、師玉寧は血相を変えて怒鳴りつけた。感情的な|師玉寧《シーギョクニン》を初めて見た|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず顔を引き攣らせ怖気付く。 |師玉寧《シーギョクニン》は更に声を荒げた。「お前は、黙って私の横に居ればいい!!」「で、でも、それじゃ……」「でも何だ?! まだ何か文句があるのか?! これ以上無駄口を叩くならば、霊符に封印するぞ!!」「……」 |師玉寧《シーギョクニン》の黄玉の瞳が激しく揺れている。 その瞳の奥から、猛獣の如く獲物を独占したいという欲望が溢れていた。墨余穏はどうする事もできず口を閉ざす。 師玉寧からようやく胸ぐらを解放され、墨余穏はよろけた身体を立て直し、そっと首元を整えた。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向け、声だけを墨余穏に向ける。「|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ急ぐぞ。|風立《フォンリー》が危ない」「……何があったの?」 |墨余穏《モーユーウェン》は怪訝そうに訊ねると、|師玉寧《シーギョクニン》は小さく溜め息を漏らし、言葉を繋げた。「突厥に捕まったと神通符が届いた。その中にはお前を襲った|呂熙《リュ
|墨余穏《モーユーウェン》の心の水面は凪の如く落ち着き、正気を取り戻すと、|趙沁《ジャオチン》の言っていた|栄穂村《ろんすいむら》に到着した。 古い家屋が並び、奥にはだだっ広い田畑が広がっている。 その横には馬や牛、山羊などの動物たち飼育されており、酪農の独特な香りが漂っていた。 「ここが僕たちの住む村だよ。僕たちは皆農家なんだ。五十人も満たない小さな村だけど、皆仲良くやっているよ」「へぇ。そうなのか。ちなみに、|趙沁《ジャオチン》は何を作ってるんだ?」「僕は、山羊を飼育している。ここの村の山羊肉やお乳はとっても美味しいだ。良かったら食べていかない? 後でご馳走するよ」 山羊肉が好物な|墨余穏《モーユーウェン》はそれを聞いて、口の中を涎で満たした。 墨余穏は溢れてくる生唾を飲み込みながら、案内された家まで趙沁を運ぶ。すると、趙沁の背負われた姿に気づいた村の長老が、何事かと顔を曇らせて駆け寄って来る。「|趙沁《ジャオチン》! 一体どうしたんだ! 何があったんだい?!」「あ、|長豊《チャンフォン》さん。いやぁ〜、山道を下ろうとしたら足を滑らせてしまって。ちょうど近くにいたこちらの|墨逸《モーイー》仙君に助けてもらったんだ」 長老の|長豊《チャンフォン》はそれを聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》に小さく頭を下げた。続けて、「あまり無理をするな」と|趙沁《ジャオチン》に言うと、長豊は墨余穏の背中から降りようとする趙沁の背中を支え、椅子に座らせた。趙沁の様子に安堵したのか、長豊がゆっくりと顔を綻ばせる。「仙君。うちの村の者を助けてくださり、ありがとうございました。礼は尽くしますので、今しばらくこちらでお待ちください」 「あ、|長豊《チャンフォン》さん、僕の所にある山羊の肉もお願いできる?」「あぁ、分かったよ! 茶も持ってくるから、ゆっくりしていな」「礼には及ばない」と|墨余穏《モーユーウェン》は言うも、長豊は全く聞き耳を持たず、外へ出て行ってしまった。 |趙沁《ジャオチン》は鼻を掻きながら墨余穏に言う。「気にせず甘えていいから。僕も|墨逸《モーイー》ともう少し話がしたいから、ここにいて」「なんか、申し訳ないなぁ。ありがとう」 |墨余穏《モーユーウェン》は控えめな笑みを見せた。 すると、|趙沁《ジャオチン》がおぼつかない足取りで、薬
物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑







