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第七話 寒仙雪門

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-09-22 11:15:03

寒仙雪門の冷風に乗って舞い踊る水仙の甘い香りが部屋中を漂い、|墨余穏《モーユーウェン》の鼻の奥をつんと冷やす。

ゆっくりと目を開け、豪華な白い紗が幾重にも重なった洒落た天井を見遣る。

(ここは……)

「目が覚めたか」

透き通った聞き覚えのある美声が、脳天に降りてくる。

|墨余穏《モーユーウェン》はムクっと上体を起こし、カチャカチャと音のする方に目を向けると、仏頂面な顔で|師玉寧《シーギョクニン》が茶を淹れていた。

「ここは?」

「私の私室だ」

(ここが、建て直したと言っていた玉庵か……)

そう聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、夢でも見ているのではないかと錯覚し、自分の頬をつねる。あれだけ会うのを躊躇していた|墨余穏《モーユーウェン》だったが、いざ水仙の花を目の前にすると非常に眺めが美しく、心が躍った。

「|墨逸《モーイー》。茶だ。飲むといい」

|師玉寧《シーギョクニン》は卓の椅子に腰掛け、自らも淹れたての茶を啜る。|墨余穏《モーユーウェン》は寝台から降り、|師玉寧《シーギョクニン》と向かい合うようにして椅子に座った。

揺蕩う湯気が心地良く、|墨余穏《モーユーウェン》は「いただきます」と言って茶をそっと口に含んだ。

しかし、|墨余穏《モーユーウェン》はすっかり忘れていた。

|寒仙雪門《かんせんせつもん》で出される茶は、苦くて有名な一葉茶であることを。

目の前にいる|水仙玉君《すいせんぎょくくん》は、水を啜っているかの如く、何一つ表情を変えない。

茶器を握りしめたまま続きの一口が飲めないでいると、見兼ねた|師玉寧《シーギョクニン》が、くぐもった声で一言放った。

「最後まで飲め」

|墨余穏《モーユーウェン》は片方だけ口角を吊り上げながら、苦笑いを浮かべる。飲めないなどとは言わせない圧が、短い言葉から滲み出ていた。

|墨余穏《モーユーウェン》は一息置いて、一気に飲み干す。

(うぅ……、まっず……)

すぐに俯き、しばらく顔を上げられないままでいると|師玉寧《シーギョクニン》が卓の上に一枚の呪符を置いた。

「|墨逸《モーイー》。これはお前のか?」

|墨余穏《モーユーウェン》はゆっくり顔を上げて、「うん」と答える。続けて「なんで持ってんの?」と尋ねた。

|師玉寧《シーギョクニン》は、黄玉の目を細めながら答える。

「黄山で拾った。呪符はちゃんと回収しろ。誰かに悪用される」

「ないない。俺の呪符は強力だし、誰にも真似できないよ」

|師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》を一瞥しながら、小さく溜息をつく。

天台山に所属する門派、天流会の者たちは、古くから呪符は必ず回収するよう掟に定められている。上級の強力な呪符を異国者や修仙者以外の者に触れさせない為だ。

しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は、その事について忘れてしまっているのか、意気揚々と続ける。

「それに、俺凄くない? あんなでっかい幻獣を一人で倒したんだよ! ねぇ、少しは褒めてよー。|賢寧《シェンニン》兄ぐらいじゃないと倒せないでしょ?」

「あんな幼獣を倒したところで強くなったと思うな」

相変わらず氷瀑の如く鋭い刃を持った|師玉寧《シーギョクニン》の言葉に、|墨余穏《モーユーウェン》はムスッと下唇を突き出した。

そんな様子など見向きもしない|師玉寧《シーギョクニン》は、白い包子が二つ乗った皿を卓の上に置く。

「ん?これは?」

|墨余穏《モーユーウェン》は、視線を合わせてくれない|師玉寧《シーギョクニン》の目を追うように尋ねた。

|師玉寧《シーギョクニン》は自分の分の包子を手に取って半分に割り、「苦参が入った包子だ」と言って、一口齧り付く。

苦参と聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、絶句しながら思わず目を見開いた。

(何でそんな苦い薬草をぶち込むんだ?! 普通は肉だろ……)

|墨余穏《モーユーウェン》は落胆するように眉を垂れ下げて、仕方なく頬張った。

天は二物を与えずとは正にこういうことを言うのだろう。

十全十美の|師玉寧《シーギョクニン》に、天は味覚音痴と料理下手という才を与えた。そんな|師玉寧《シーギョクニン》はというと、あっという間に包子を食べ終え、静かに書物を広げて何かを書き記す。

「ねぇ、何書いてんの?」

「妖魔が出た日付と場所だ」

|墨余穏《モーユーウェン》は包子を咥えながら、|師玉寧《シーギョクニン》の背後に周り、上から覗き込むように書物を眺めた。

「昔からまめだね、|賢寧《シェンニン》兄は」

そう言いながら、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の横顔に自分の顔を近づけるが、何を思ったのか|師玉寧《シーギョクニン》は避けるかのように書物を閉じ、本棚へ戻しに席を立った。

|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の背中を一瞥し、「ふんっ」と鼻を鳴らす。

「ところで、|賢寧《シェンニン》兄。|青鳴天《チンミンティェン》と一緒にいた|阿可《アーグァ》って奴は何者なの? そいつ、抜け殻だけ残して消えたんだよ! 投げた|峨嵋刺《かびし》で胸を射抜いたのにさ」

「うん。 奴らは三神寳を盗めるぐらいだ。超人であることは間違いない。この突厥たちは、様々な国に行っては財宝を盗み、それを駆け引きに力を得ている。我々が大切に守ってきた三神寳も、奴らは新羅(韓国)の物だと言い張っているようだ」

「新羅? どうして急に?」

|墨余穏《モーユーウェン》は全く理解できないといった様子で頬杖をつく。|師玉寧《シーギョクニン》は本棚に背を向けて、その場から続けた。

「皇帝が代理に変わった事が原因だろう」

「|李高祖《リーガオソ》じゃないのか?」

|師玉寧《シーギョクニン》は小さく首を振りながら、元居た場所へ戻り、また苦い一葉茶を自分の茶杯に注ぎ始める。

「|李世《リーヨ》という腹違いの末っ子だ」

「李世ってあの幼い頃から美男子だった奴か?」

美男子と聞いて、|師玉寧《シーギョクニン》の顔が一瞬曇った。そんな師玉寧の表情を全く見ていなかった|墨余穏《モーユーウェン》は、「でも、どんな顔してたっけ?」と人差し指を頬に当てながら、記憶を巡らせている。

李皇帝には、皇子が三人いるのだが、これが残念なことに三人とも腹違いの兄弟な為、不倶戴天の仲なのだ。政になると頭を抱える李皇帝は、普段から天台山の長座・道玄天尊に教授を仰いでいた。そこで、一番穏やかで素直な末の皇子を推薦し、代理に仕立てたようだ。

「何で代理なんか立てたんだ?」

「李皇帝が何者かに毒を煽られたそうだ。それからずっと、静養なさっている」

いつの世も皇帝の争い事は絶えずよくある話だ、と|墨余穏《モーユーウェン》は人ごとのように「ふぅ〜ん」と言った。

十年もすれば、世勢は当然のように変わる。

目の前にいる水仙も門主になり、妾や子がいてもおかしくはない年頃だ。

自分だけが十年前のまま置いていかれているような気になっていたが、目の前にいるこの水仙は何も変わっていないようで、|墨余穏《モーユーウェン》はそれが唯一の救いだった。

すると、|師玉寧《シーギョクニン》が外の庭を眺めながら、独り言のように呟く。

「ここ最近。いろんな事が立て続けに起きている。突厥の襲来、三神寳の盗難、皇帝内の紛争、そして墨逸。お前がここにいることだ」

「俺も何か関わっているってこと?」

「分からんが、今はあまり派手に動くな」

|師玉寧《シーギョクニン》はそう言うと、重い腰を上げるように立ち上がり、壁に掛けてあった長袖を羽織りながら続ける。

「私は今から|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の所へ行く。|墨逸《モーイー》、お前はもう少し横になって休んでいろ。お前は恐らくこのあと熱を出す。何かあればこの神通符で|一恩《イーエン》を呼べ。すぐに駆けつけるようにさせる」

そう言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は凍りそうな冷たい空気だけを残して部屋を出ていった。

(|香翠天尊《シィアンツイてんずん》……)

|墨余穏《モーユーウェン》はその人物の名を聞いて、胸がチクリと痛んだ。

そう。|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は天台山にいる|道玄天尊《ドウゲンてんずん》の妹であり、|師玉寧《シーギョクニン》が前世から想いを寄せている女性だ。

前世でも|師玉寧《シーギョクニン》は頻繁に|香翠天尊《シィアンツイてんずん》の元を訪れていた。気になって後をつけて見に行ったことがあったが、自分には見せない笑みを湛え、仲睦まじく笑い合っていた姿が今も忘れられない。

今もまだ想いを寄せているのか、と|墨余穏《モーユーウェン》は落胆し、晴れやかだった心の蕾が萎んだ。

「はっくしゅん!」

|墨余穏《モーユーウェン》は言われた側から、くしゃみを飛ばす。部屋も冷たさが増し、身体も心も完全に冷え始めた。

(あぁ〜、何なんだよ……ったく)

|墨余穏《モーユーウェン》は衣の上から腕を摩りながら|師玉寧《シーギョクニン》の寝台へもう一度上がり、布団に包まる。|師玉寧《シーギョクニン》の残り香だけを頼りに|墨余穏《モーユーウェン》は、熱っていく身体を解放するかのように、ゆっくりと目を閉じた。

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Comments (1)
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Eve郁
師玉寧、すごくいいキャラしてるっ……......喋り出した瞬間から、もう大好き そして彼が想いをよせている人(仮)は女性だったのですね!お美しい名前……(でも主人公の気持ちを考えると切ない……) 事件も色々重なってきて、展開が色々と気になります!
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